============================================================ 物的対象(テーブルなど)についての知識の確実性について ============================================================ 知覚の扉を開けてみる ----------------------- ここにテーブルがある。わたしは目の前にテーブルがあることを知覚する。 それはこの部屋に入って来た健常な人ならば わたしと同じようにテーブルに気づくものと私は信じている。 どんな色でどんな手触りのテーブルなのか、叩くとどんな音がするのか、 私は近寄って実際にやってみる。私の五感に訴えるものがある。 色は濃い茶色で木目があり、つるつるとした冷たい手触りで、 叩くと硬く鈍い音がする。テーブルの細かい仕様をみるために、 カタログに目を通してみる。どこで作られたのか、 大きさはどのくらいで高さはどれだけあるのか、材質は何なのかなど、 私は記述による知識を得ることができる。 目を閉じても私がこの部屋から出て行っても、テーブルは存在し続ける。 またこのテーブルが本当は人から譲り受けたものだとしよう。 しかしその人の五感で得たセンスデータを譲り受けることはできない。 ではテーブルの本性とはなんなのだろう?私は顕微鏡で肌理や材質を入念に調べる。 裸眼では得られなかったものが見えるが、 裸眼で見たものも顕微鏡で見えたものもどちらも本物のテーブルなのである。 センスデータの集合体 ----------------------- テーブルの上に猫が飛び乗る。猫はセンスデータの集合体ではない。 またテーブルも神の意識によって私たちがテーブルを感じているのではない。 テーブルも猫も実在している。実在とはなんだろうか? 猫はセンスデータの集まりではないので、腹も空かせるし、ミルクも飲む。 テーブルも意識ではないから抱えたら重い。 私たちはこれらのものが確かに存在していると信じている本能的信念を持っている。 本能的信念とは疑いようもない信念と捉えても良いのだろうか? I am looking at the tableとThe table is being watchedという考え方ができる。 存在価値 ----------- もしこのテーブルが黒澤明監督の使っていたもので、 4百万で買い取ったのだとしたら、このテーブルから黒澤明という固有名詞が一人歩きするのだろうか?  ましてこのテーブルでシナリオを書き、アカデミー賞を獲ったというエピソードがあったとしたら、 このテーブルには付加価値がつくのだろうか? 黒澤明に会ったこともない私が彼について判断するときには、 ウィキペディアなどの記述による歴史的知識を得ることになる。 黒澤のことを「日本を代表する映画監督」と仮定してみよう。 すると代表という単語は人によって異なるイメージを持つことだろう。 サッカー日本代表を思い浮かべる人もあるだろうし、 代表取締役社長を思い起こす人もいるだろう。 しかるに世界のクロサワはメガネをかけていたとしても、 私は個人的にクロサワを知らないので、記述としての面識とクロサワを知っていた人が語る言葉を信ずるより他にない。 彼は本当に目が悪かったのだろうか?このように知識の大半は神秘的で疑わしくもあるのだ。 演繹と帰納原理 ----------------- 太陽は明日ものぼるだろう…という確信はこれまでの経験や運動法則、重力の法則、 学術的知識などから私は信じている。太陽は明日も間違いなくのぼるのだと。 おそらく例外はないだろう。しかし鶏をヒナから飼っている人は 最後に鶏になって首を絞めて食べてしまうかもしれない。 しかしながらヒナは餌が毎日貰えると期待しているので、 例外は起こるにせよ無二の信頼を寄せているのだと思う。これを帰納原理というらしい。 また友達と待ち合わせをしたとき、彼女の体に最悪の敵や見ず知らずの人の心が入り込んでいるなどということは 決してない。この見込みが妥当かどうか帰納原理にかかっている。 しかし過去これまでそうだったからと言って、これからもそうだという正しさを証明することはできない。 2+2=4であることも、一年が365日であることも、疑うことはない。 みかん二つずつでも四個になるし、鉛筆と消しゴムと定規と万年筆でも四個になる。 こういう考え方を演繹的という。また四年に一度、ウルー年があることも私たちは常識的に知っている。 その一年だけ日付が増えるからといって太陽が二つになるわけではない。 まとめにかえて ----------------- 私は一本の木があることを神の目線や意識だと考えたバークリのことがとても印象に残った。 そこにものが存在するということが神の与えてくれた意識の集合体であり、 神のおかげで私たちが感じていられるという考えは強く私の心を揺さぶった。 と同時に自分が存在することは絶対であったデカルトにも驚かされた。 「何が知られるにせよ、私たちが知ることのできるものはある意味で心的でなければならない」 ということを言葉にしたことで改めて頷くものが多かった。 また1+1=2とか、三角形の内側の和は180度になると言った常識的な知識を アプリオリというのだということも初めて知った。 常識という言葉の使い方を今一度考えさせられた。生まれてから数学の成り立ちを疑ったことはない。 台形の方程式もユーグリットの互除法も疑ったことはない。 これを以前は生得的と言ったが、今はアプリオリという。 帰納原理と遺伝子疾患は結びつくものがあるのだろうか?  私には遺伝子疾患があるのでつい考えさせられてしまった。 哲学という学問の扉を開き、パンドラの箱をあけてしまったきりなのでした。 @@reference: バートランド・ラッセル;高村夏輝訳,哲学入門,筑摩書房,2005,p9-p279,4480089047@@ @@author:きり@@ @@accept:2019-12-10@@ @@category:哲学@@ @@id:russell@@