■ イントロのイントロ:戦略的逃避  5年前、当時の東大構内にあった駒場寮に住んでいたころ、タカシマ・ユウヤという親友と知り合い、ルームメイトになりました。「世界は波動方程式で記述されるんだァァー」などと言っていたタカシマ君は、教養課程から3年に進学するとき、文学部哲学科か理学部の物理学科に進むのか迷っていたようでしたが、最終的に物理学科に進学して、理論物理学を専攻することになりました。  そのとき彼が言っていた進学理由は、当時の私にとって印象的でした。はっきりとは覚えていないので再構成すると、だいたい次のような発言だったと思います。  「僕は人間の世界から、遠く離れた仙人みたいなことをしていたいんだ。哲学もいいかな、って思ったんだけど・・・しょせん哲学も人間のことを考えるわけだから、人間臭いじゃないですか。純粋に、数式だけをいじって宇宙の真理を探究したいんだよね。僕は、世捨て人になるんです」  これを現実逃避として切って捨ててしまうのは、あまりにも簡単なことですが、あえてこの「理論の世界への逃避」を、戦略的な逃避として、捉えなおしてみることにしたいと思います。  この記事では「目の前の人間的な世界」からの距離を取ることを可能にしてくれるという観点から、現代理論物理学・精神分析・仏教(私の職業は僧侶ですから専売特許ですね。にこり。)を結びつける試みを進めていくつもりでいます。  ■ 素朴理論  そのためには、まず素朴理論と呼ばれる、世界理解の方法から入ってみることにしましょう。(これについての解説は、たとえば「素朴理論と誤信」というサイトを参照ください。)  子供のころ、おそらく誰もが持っていたはず。自分なりの素朴理論。素朴理論とは、世界を自分なりのやりかたで理解する、とても人間的な世界観のことです。  以下の二つは昨日、下北沢の「いーはとーぼ」という喫茶店でともだちと話しているとき、彼女が素朴理論の例として挙げてくれたもの。  (1) 冷たい飲み物の露が、染み出てくる。  (2) 重たいもののほうが、速く落ちる。  しかし科学的な見地からすると、(1)は低温により飽和水蒸気量が下がって水蒸気が結露したと説明されることで「誤り」だと示される。また、加速度は重力によるのであるから質量に関わらず一定だとされることで、(2)も「誤り」だということになります、ね。  ほとんどの子供が最初に持っていたであろう素朴理論といえば、太陽が地球のまわりをまわっているという直感かもしれない。だって、ぱっと見た目に、どう見たって、太陽のほうがまわってるようにしか、見えないんだもの。  でもこれもやっぱり、「地球のほうが太陽のまわりをまわっているんですよ」って学校で教えられることによって、否定されることになります。  (子供は普通これを、自分で証明できるわけでも、目で見ることができるわけでもないんだから、「でも太陽が地球のまわりをまわってて何が悪いの?」とダダをこねてもよさそうなものなのだけれど・・・)  こんなふうにして、小さいころの僕らが持っている素朴理論は、次々と否定されていくことになる。  ■ 呪術的な素朴理論が色あせるとき。  なにも理科学習や科学の研究をすることをしなくても、子供のころ持っていた自分なりの素朴理論というものは、いろんなことを経験して慣れてゆくなかで、否定されたり失われたり、それから忘れられていくものです。  素朴理論の中には呪術的だったりゲーム的だったりする性質を持ったものもあって、小学生低学年のころの私は、そういうのを素朴に信じていました。  その頃の素朴理論は沢山あったのですが、たとえば親の車に乗せてもらっているとき、車窓からみえる電信柱に巻かれている黒×黄の反射板をチャンチャンコに見立てて、それが見えるたびに、「チャンチャンコを手に入れた」と言って、チャンチャンコの数を集めていたのを覚えています。  それから今度は、車窓から他の車のナンバープレートが見えたとき、その色が黒か黄色だったら、ダメージを受ける、と考えていました。(黒だったらダメージ4で、黄色だったらダメージ1だったような記憶があります。)  受けたダメージはチャンチャンコでガードすることにより相殺することができて、要するにダメージ4受けたらチャンチャンコが4つなくなる、という具合です。チャンチャンコがゼロになった上でダメージを10受けてしまうと、その日は不幸になるのだけれど、ダメージを受けずに済んだ場合は、ハッピーなことが起こる、という法則を信じていたように思います。  この素朴理論に関しては、別に何か具体的に「これが間違っている」とか「こんなのあるはずない」とか誰かから言われたり教えられたりしたわけでもないのに、気づいたら、いつの間にか信じていなくなっていました。  私が世界に慣れて、いろいろなことを知っていくにつれて、こういった「子供の世界」もまた同時に、失われていったようなのです。これは物寂しいことのようにも思えるのも確かなのですが、しかしこれから私があえて述べようと思っているのは、どちらかと反対のことであります。  ■ 素朴理論の、(罠としての)機能  思うに、以上に挙げたような素朴理論には、人を《罠》へと誘惑するような性質がいくつかあります。  素朴理論は、「科学的には間違っている」としても、「自分の頭で自分なりに考えた、純真な世界観」として、大人たちから褒められたり、美化されたりしやすいです。あるいは自分の「無垢だった」子供時代を思い出して、懐古趣味的に賛美してしまう、ということが、しばしば起こります。  つまり、大人は「無味乾燥で科学的な世界」に生きているけれど、子供は「有機的で人間的な世界」に生きている、という、ありきたりの子供賛美が起こりがちなわけです。  さて。こんな子供になぞらえて「美化」されがちな素朴理論にはらまれる《罠》とは。  自分なりに世界をとらえる、というのは、ありのままの世界を自分なりに受け入れられる形に変形し、人間的な枠組みにおさめこもうという方法であるといえるでしょう。  これを言い換えると、目の前の世界をそのままでは受け入れがたいがゆえに、素朴理論によって自分なりに受け入れやすい形へと歪曲することによって、目の前の世界をむりに受け入れる=従属するということを含むわけです。つまり、自分から進んで、「人間的なもの」へと歪曲された世界へと従属し、隷属いてゆく、という罠。  (「人間的なもの」が抑圧的にはたらくということについては、拙僧のサイト「家出空間」の記事「人間辞職ノススメ」で書きましたので、興味があればごらんください。)  ■ 素朴理論の染み。  ところで現代科学の到達地点から言うならば、素朴理論を「失ってしまったもの」として懐かしむべきものであるどころか、実は、真逆なのでは。「人間的な、人間の顔をした」素朴理論は、大人にだって、あるいは科学者にすら、いくらでもコビリツイテいるものなのではないかしら。  目の前に物質(たとえばPCのディスプレイ、たとえばリンゴ)が存在するとか、人には心があるとか、そういったことを前提にしないと、フツーの日常生活というのは、成り立たない。。。のだが、一般相対性理論によると「物質と思われているものは、空間の歪みである」とされるわけだし、量子論によると「世界の事物は全て、波動に還元されることになる」わけですから、現代の理論物理学はそれをもしも文字通りに受け入れたならば物質を「消滅」させ、フツーの日常生活の常識をぶっ壊しかねないほどの、実にブットンダ結論を示しているわけです。  この現代物理学による「物質の消滅」とでもいうべき事態からすると、物体が目の前に確かに存在するという素朴な直感すらも、素朴理論の一種ということになります。そして(物質や心が存在するという)素朴理論を信じていないと、フツーの日常生活は崩壊してしまいかねませんから、量子論や相対論に従事する科学者ですら日常生活においてはおそらく、物の存在や心の存在という、素朴で「人間的な」信念を前提としているわけであります。  つまり科学自体は素朴理論と正反対に、徹底的に「非人間的」であります。(人間に反対しているわけではありませんから、私はこれを反人間的といわずに、「非人間的」とか「脱人間的」と呼びたいと思います。)  そして非人間的であって、人間の日常的な直感にとっては受け入れがたいからこそ、目の前の人間的な世界への従属から、解き放ってくれるような、解放的な側面を持っているように思われます。  科学の世界観は、「日常的な人間」にとっては世界を分かりやすくするどころか、分かりにくく、受け入れにくくし、世界からの断絶を示すことになります。  科学は、支配者や先進国により利用されて破壊行為に応用されることもあれば、環境を保護したり医療を発展させたりすることに応用されることもありますが、本来的に科学自身は、自分がどのように使われるかということに対して、無関心であります。  このことが「非人間的」だとして批判されることもあるのですが、ここではむしろ、逆のことを言いたいと思います。「非人間的」だからこそ、「人間的な」素朴理論により歪曲された世界を中和し、目の前の世界への従属から解放してくれる自由度を持っているのではないかしら、と。  ■ 非人間的なるものたちの連盟  こういった解放的な威力を持つものは、およそすべて、何らかの範囲において、日常的な生活感覚に違和感を与え、「人間的」常識に統合し得ないような、非人間的な核を持ってます。  現代物理学の領域でそのような核を持つのは、上にあげたような量子論や相対論があるように思われます。量子論や相対論によって得られる知識は、人間的な常識に組み込めず、科学知識の進歩自体を目的にして突き進みます。この意味において理論科学は人間的な日常世界にとって、精神分析で言われる、トラウマ(フツーは受け入れがたく、抑圧されがち)的な作用をおよぼします。  精神分析における「トラウマ」は、人間的ストーリーに組み込めない傷であり、抑圧された核です。その具体的な形態としては、主体が決して「自分のもの」として認めることができず否認するほかはないような、だけれど同時に人の最も奥底にある、大切な幻想という形を取ります。  精神分析は被分析者に対して、この本人ですら引き受けられないほど強烈な幻想を、引き出してみせることで、「幻想を横断」させることを目指します。  ラカン派精神分析において扱われる、耐えがたい「トラウマ」噴出という主題は、あまりにも受け入れがたいがゆえに普段は奥深くに抑圧されているものを、明るみに出します。  トラウマが明るみに出されてしまうと、今までの「人間的な」言葉の世界(これを《象徴界》と呼びます)が維持できなくなりますから、ラカン派精神分析における治療もまた、きわめて「非人間的」だと言えるでしょう。  ここで噴出してくるものに、精神分析では《現実界》という名前がつけられています。  そして、私の専門である仏教における無我の思想もまた、「心」と「物」は「五蘊」という装置によって作られているだけだとして、「心」と「物」の実在を否定して解体する点で、非人間的であります。  仏教とは「○○仏」を盲目的に信仰することだという誤解が広まっていますが、お釈迦様が始めた仏教の核心というのは、あらゆる信仰や神への依存を消去していって、完全なる精神的な自由を得るための、精神集中のテクニックだったのです。  思うに、ここで消去されるべきだと言った信仰とは、素朴理論と言い換えることができます。  仏道と精神分析については、あまりにもオオザッパかつ短く書きすぎたので、わけが分からない、かもしれません。  これからゆっくりと、人間の顔をした素朴理論に対して、「物理学(量子論/相対論)」・「ラカン派精神分析」・「仏道」が破壊力と解放力を持って闘争する様子を、見ていくことにいたしましょう。  あ、そうだ。「あ、怪しい・・・」と尻込みしてしまうかたも、騙されたと思って、どうぞ足を踏み入れてみてくださいまし、ね。