物理のかぎしっぽ 記事ソース/哲学的知識を追求することの意義について の変更点

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 哲学的知識を追求することの意義について
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 流行り言葉から哲学的思索をする
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 例えばエディンバラはロンドンの北にあるという命題だが、
 最近の日本人は「ロンドンの北のほうにある」と言ってしまいがちだ。
 この「〜の北のほう」とはどこを指すのか?
 他にもこの「〜のほう」は多様化されていて、あちこちで耳にすることができる。
 先日、私が胃カメラを受けた際、看護師が「今朝、お食事のほうは取られていませんか?」と皆に質問していた。
 「〜のほう」は丁寧語なのだろうか?と私は首をひねってしまった。
 一昔前ならなかった言葉だろうと感じたからだ。
 哲学は身近にあるあらゆる日常的な言葉や物事などを真摯に考えることから始まる。
 そしてその哲学的思索は人生にユーモアや意義を見いだすことができる。
 ちなみに「〜のほう」は丁寧に感じる部分もあろうが、不要な単語だと私は思う。
 グレーゾーンという単語もどこを指しているのか不明だが、明るい印象は持ち合わせていない。
 グレーという単語には直感的に生理的に許しがたいものを人は感じるのだと思う。
 他にも日本には北より南の方が好まれて、北を喜多と表したりもする。
 
 カントの命題が示唆すること
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 自分の中にアプリオリ的なるものがあるなという発見も楽しい。
 「2+2=4」に一度でも疑いを持ったものはいるのだろうか?
 私は今、ユークリッド互除法の計算を数学で勉強しているが、
 50歳も近くなってからそういうルールであるとすりこむように覚えこませるのは難しい。
 特に教えるのが夫であるため、つい疑念を抱いてしまう。
 カント以前はアプリオリな知識はすべて分析的でなければならないと考えられていたらしい。
 カントのお気に入りの命題である「7+5=12」だが、
 プラスやイコールを見つめていても何も浮かばない。
 ひとまとまりに総合的に捉えるとあるが、私はつい直感的に五感で感じ取った以上をこの命題から感じることができない。
 またデカルトも「省察」の中で、「感覚は時として欺く」と言っている。
 この「7+5=12」というのはアプリオリではなく、総合的な問題なのだろうか?
 「4+8=12」ではダメだったのだろうか?数学を無条件に信じるという意識はすりこみによるものなのか、
 先天的なものなのか、私はとても追求してみたい。
 一つの言葉が数々の個物に当てはまるのは、それらが本性または本質を共有するからだと言う。
 それでは北やグレーといったものに何か否定的なものを感じるのは私に限ったことではないのだろうか?
 またそう言う意識が極限まで高まると自我には妄想といった危険も付きまとうのだろうと思う。
 そう思うと、哲学を追求し続けることはある意味、神の領域なのかもしれないと私は以前から感じるところがあった。
 頑丈な自我と健康な精神力を持った人でなければ、哲学は追求できないのだろうか?
 
 哲学の価値とは
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 「白」と言う言葉も弁護士が白を論じるのと、
 クリーニング屋が白を論じるのでは意味合いもイメージも異なるだろう。
 私たちははじめにものの知識と真理の知識を区別し、さらにそのそれぞれを直接と派生とに分け、
 直接的なものを面識といい、さらにこの種の知識が個物か普遍に分けられるところまで学んだ。
 個物から面識されるものをセンスデータ(自分自身)に、派生的なものの知識を記述による知識と言い、
 そこには何らかのものとの面識と真理の知識の両方が含まれている。
 直接的な真理の知識は直観的知識でもあり、そうして知られる真理は自明な真理であると言える。
 哲学の価値とはなんだろう?ラッセルは物質的な必要性しか認めず、体に食べ物を与えることはわかっていても、
 心にも同様のものが必要だと言うことがわからない人を現実的な人と表しているが、
 私は哲学のような無形の財産こそ人が生きてゆくために必要な善であると信じて疑わない。
 バッグや指輪やスポーツカーで自分を飾り立てるよりも、
 音楽や絵画や旅行が無形でいて、なくてはならないように、
 哲学も人類にとってなくてはならない祈りにも似た一筋の希望だと思う。
 人にとって何が善で何が真な正しさか判断に迷うようなとき、
 この哲学的思索によって宗教なる信念と科学という証明なる信念との間のグレーゾーンを
 哲学に委ねてみるべきではないか?と思うのだ。
 またラッセルは自我を縛り付けるのではなく、宇宙大に押し広げて大きなユニバースな心で生きよと言っている。
 知識欲は人間だけが有する特別なものだし、例えば今、怒っている、
 腹が空いているという感情を見つめることができるのは(意識できるのは)人間だけが持ちうるものなのだ。
 この心を見つめるということを素直に受け入れて、生活の中で実践してゆくことこそ、
 哲学とともに生きることではないだろうか?そしてそれが哲学的知識を追求する歓びだと私は思う。
 
 @@reference: バートランド・ラッセル,哲学入門,筑摩書房,2005,p1-p284,4480089047@@
 
 @@author:きり@@
 @@accept:2019-12-10@@
 @@category:心理学@@
 @@id:philosophical&knowledge@@
 
 
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