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 帝国主義の時代におけるヨーロッパ各国の国民統合の進展について
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 帝国主義の変換
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 1870年代から世紀末にいたる時代は「帝国主義の時代」と呼ばれ、
 国際政治、経済の面で大きな構造転換が行われた。
 そのときイギリスはまさに絶頂期であり、国際経済の覇者として、グラッドストンが内閣を組織していた。
 主に陸自兵力や教育法において並外れた改革を行い、初等教育法や大学審査法、
 公務員試験制度などを完成の域に至らしめた。しかしこのイギリスが絶頂期のあいだに、
 世界情勢は大きな転換をみせはじめ、ドイツ統一の民族運動がその最終局面に達し、
 普仏戦争はプロイセンの圧勝に終わり、ここにドイツ帝国が誕生した。
 また普墺戦争に敗れたオーストリアはハンガリーとのあいだに二重帝国を形成し、
 中欧に圧力を維持。イタリアでも民族国家の統一が進んでイタリア王国が誕生した。  
 70年代には工業化の先進国と目されている列強諸国がほぼ出揃い、世界史の様相を一変させた。
 弱肉強食の容赦ない帝国主義は、暗黒大陸アフリカをも植民地として支配下におさめるが、
 アメリカ合衆国とドイツの激しいキャッチアップを受けて、
 世紀末のイギリスは石炭、鋼鉄、綿花のいずれにおいても追い抜かれてしまい、
 覇者イギリスも20世紀初頭には経済生産力において、追われる形となった。
 
 大不況のはじまり
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 イギリスは大不況の嵐が1873年から吹き荒れたが、
 原因は第1に交通網ラッシュや電話の発明など、ドイツや合衆国の追い上げと、
 日露伊の産業革命のはじまり、第2に流通に大きな風穴を開けた、
 米国のヨーロッパ向け穀物輸出の増加によって、農業人口の減退と同時に地主社会に影がさし、
 総選挙の際には中産階級の動員数が貴族社会を凌駕するまでに至ったことなどが考えられる。
 機械が生産する安価な米国の穀物輸出には歯が立たず、イギリスの穀物生産高は一気に落ち込み、
 地主階級の議員数に変化が起こったのである。
 しかしこのころから海外投資も始まり、イギリス資本によって、アルゼンチンやカナダ、インドの鉄道建設など、
 鉄道株の花形によって人々の生活はうるおい、
 インドをはじめとする植民地の存在によってイギリス社会は支えられていたともいえる。
 資本輸出の利子、配当収入に依存する生活者層が誕生するとともに、
 地主階級は海外投資や金融資本家たちと結びつき、
 ここにジェントルマン・エリートという新しい上流支配階級を形成した。
 イギリスの赤字幅を大きく変えたのがインドの経常黒字であった。
 
 ディズレーリの存在
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 自由党のグラッドストンは植民地ニュージーランドのマオリ族の反乱に苦しみ、
 保守党の党首であるディズレーリが第2次ディズレーリ内閣を成立させた。
 ドイツとロシアの膨張主義に対抗して、イギリスの重要性を誇示し、
 ディズレーリ内閣では労働組合や職工住宅法、公衆衛生法の社会政策に取り組んだ。
 これらの社会政策は「トーリー・デモクラシー」と呼ばれ、ディズレーリは国民の健康を訴えて、
 民衆によりそった政策を行い、
 こうしてイギリスは古典的な自由主義国家から福祉主義国家へと指向性を変えるようになった。
 ディズレーリは1876年にロスチャイルド家から資本を借り入れて、スエズ運河を買収し、
 本国と西洋、アジアを結ぶ大動脈を手に入れた。
 またヴィクトリア女王の寵愛を受けたディズレーリは国王尊称法を成立させ、
 インド皇帝にヴィクトリア女王を推戴した。東方問題として知られたクリミア戦争からの国際紛争も、
 ブルガリア公国の建設をオーストリアとイギリスで阻止し、ロシアに圧力をかけることで鎮圧しようとした。
 これらの国際的危機をドイツのビスマルク宰相はベルリン会議を行い、
 ディズレーリはソールズベリーをともなって、見事な外交手腕でサン・ステファノ条約を調停し、
 オスマン帝国をキプロス島のイギリス領割譲として承認させ、エンパイアルートの保全と強化を図った。
 
 大衆社会の萌芽
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 第2次ディズレーリ内閣もロシアのアフガニスタン南下政策で政権の足をひっぱり、
 時は第2次グラッドストン内閣へと様相を変えていくが、マフディ反乱を鎮圧したスーダンの存在や、
 エジプトの植民地化など古典的自由主義の信奉者であるグラッドストンには前途多難な道でもあり、
 また彼はアイルランド問題解決に取り組んだものの、イギリスの自由主義時代はここに終焉したといってよいだろう。
 時代は全人口の7割が労働者階級であることから、マルクス主義によって、大衆社会が萌芽をみせはじめる。
 これらナショナリズムを主導したのがジョゼフ・チェンバレンである。
 チェンバレンはスラム街の撤去やガス・水道の公営化をはかったのち、国民統合を行った。
 他方ドイツでは排除による統合を行い、内なる敵(ポーランド人、社会主義者など)を創出しては弾圧していき、
 これら国境つくる動きから国境をこえる問題は、南欧東欧の移民がナショナリズムを容易には受容せず、
 宗教的な差異も手伝っていたことに起因している。パクスブリタニカと呼ばれた時代はもはや壊滅して、
 イギリスは単独自由主義を貫き、孤立を維持し続けた。大衆のナショナリズムは「ジンゴの歌」として親しまれ、
 国民意識にヴィクトリア女王と王室はなくてはならない存在だった。
 アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国は植民地化の獲得に狂奔し、
 ファッショダ事件や第2次ボーア戦争を引き起こしていった。民衆はいつの世も、
 ゆたかさを真の意味で味わうことはできず、貧困やチフスに苦しみながら自由を夢みている。
 しかしヴィクトリア女王の死は若き夏目漱石の心にも、大きな時代の転換を予測させたといえ、
 時代は徐々にベルエポックへと移ってゆく。
 
 
 @@reference: 近藤和彦,西洋世界の歴史,山川出版社,1999,p255-p267,4634645408@@
 @@reference: 谷川稔,世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩,中央公論新社,2009,p441-p474,4122051290@@
 @@author:きり@@
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